春陽の候。
華山《かざん》の麓では桜が咲き誇り、ちょうど見頃を迎えていた。 六華鳳宗《ろっかほうしゅう》の開祖・六華鳳凰《ろっかほうおう》が植えたとされる桃色の色鮮やかな百本の桜並木は、誰の目にも美しく映り、まるで華麗な舞踊を見ているかのように煌びやかだ。 「綺麗だなぁ〜」 蘭瑛《ランイン》も足を止め、桜の木を見上げる。 何かを思い起こさせるかのように、ひらりと舞い降りてきた二枚の花弁が、蘭瑛の手のひらに乗った。 「父上、母上。今年も素敵に咲きましたよ」 春になると、毎年思い出してしまう。 両親を失くしてしまったあの日のことを…。 蘭瑛は手のひらに乗った二枚の花弁を、吹かれた風に差し出し、自然に還らせた。風に乗って飛んでいく花弁を見送ったあと、蘭瑛はハッと我に帰る。 「いっけない!早く行かなきゃ。また、叔父上に怒られる〜」 六華鳳宗の現宗主・叔父の遠志《えんし》に頼まれていた約束の問診を思い出し、蘭瑛は急ぎ足でそこへ向かった。 山を降りた華山の町は、栄えている宋長安《そんちょうあん》より人口は少ないが、食材が豊富な為、食材を求めて近隣の町から人が流れてくる。町は露店で賑わい、蘭瑛はいつも問診が長引いたと嘘をついて、露店の店先で寄り道をしていた。 美味しい物に目がない蘭瑛は、もちろんこの後も、こっそり串焼きを食べるつもりだ。 「こんにちは〜。六華鳳宗の蘭瑛です」 「あ、蘭瑛先生どうぞ〜。ごめんなさいね、こんな所まで来てもらって」 もうすぐ臨月だという、腹が大きく膨らんだ亭主の妻に、笑顔で迎え入れられる。 「いえいえ、とんでもない!私は何処まででも飛んでいきますから〜」 亭主の妻とたわいもない挨拶を交わし、蘭瑛はいつも通り問診する。 六華鳳宗は名医の三宗と言われているが、朝廷に所属する御用医家ではなく、市医の医家として生業を立てている。こうして、依頼を受けた場所に出向かい、町の人々の命を守りながら歩き回っているのだ。 「今日も落ち着いてらっしゃいますね」 「蘭瑛先生のおかげだよ〜」 横になっている亭主の腹を触診し、深傷を負った腹部の傷に六華術の一つ、癒合《ゆごう》の術を施す。 「蘭瑛先生、知ってる?」 亭主の妻がお茶を淹れながら少し怪訝そうに尋ねた。 蘭瑛は首を傾げ、亭主の妻の方を向く。 「あの物騒な閉山《へいざん》の麓で、赤潰疫が出たって話」 蘭瑛の手が止まった…。 (…赤潰疫?あの玄天遊鬼の?) 「奥様!その話は本当ですか?!いつ頃聞かれたものですか?!内容を詳しく…っ」 亭主の妻の方に向かって身を乗り出し、蘭瑛はつい食い気味に聞いてしまった。 「ご、ごめんなさい…」 蘭瑛は慌てて謝り、向きを変えて、また亭主に癒合の術を施した。 「そ、そうなるのも、無理はないわよね…。詳しいことは私もよく分からないわ。ただ赤潰疫が出たってことしか…」 蘭瑛はいつもの柔らかい表情を作り、亭主たちを安心させた。 何の心配もいらないと蘭瑛は自分にも言い聞かせる。 所詮、噂だ。酷い湿疹か何かだろう…、と。 調合した薬を渡し、無事に出産を迎えられるように亭主の妻に伝え、蘭瑛は急いで六華鳳宗の邸宅である鳳明葯院《ほうみんやくいん》へ帰った。 邸宅に戻った蘭瑛は、息を切らしながら遠志の部屋を尋ねる。 「叔父上!赤潰疫が出たっていうのは本当ですか?!」 遠志は話の内容よりも、蘭瑛が勢いよくこの部屋に飛び込んできたことに驚いていた。普段は必ず扉の前で一言断りを入れるはずなのだが。 「まぁまぁ、蘭瑛。落ち着きなさい。お茶でも淹れようか。ちょうど、目を休めたいと思っていたところなんだ」 (げっ…。何、この量) 遠志の机に目を遣ると、どのように読み進めていけばいいのか分からないほどの、膨大な書物が積み上げられていた。 「驚いただろう。これは全部、過去に起きた赤潰疫の資料だよ」 「えっ?!こんなに?!…やっぱり、赤潰疫が出たのですか?」 「そうみたいだね」と言って、遠志は取り乱すことなく、湯呑みに白茶を注いだ。蘭瑛はその積み上げられていた書物を一冊手に取り、頁をめくる。するとそこには、六華鳳宗の先代の流医たちが綴ったであろう、赤潰疫の治療記録が書かれていた。 遠志は湯呑みが乗ったお盆を持って、元いた椅子に座り直す。蘭瑛も近くにあった椅子を持って、遠志の斜め向かいに座った。 「念の為、蘭瑛にも伝えておこう。赤潰疫は、疫病であるが一種の妖術のようなものだ。だから、そこらで出回る薬では根絶できない。それぞれ、三宗の作る法薬でしか効果は見込めないだろう」 「では、うちの法薬はどうやって作るのですか?」 「ここに書いてあるよ」 古書の独特な香りを漂わせた『鳳秘典《ほうひてん》』という書物を差し出された。 六華鳳凰が書き記したとされる、代々受け継がれてきた家宝の書物だ。 蘭瑛はその書物を受け取り、薄紙が挟んである頁を開く。そこには『赤沈薬《せきちんやく》』という、赤潰疫の症状緩和に効く法薬の作り方が、事細かに記載されていた。 「蘭瑛もこれを見て、法薬を試してみなさい。いつ、この近辺に現れるか分からないからね」 蘭瑛は「分かりました」と言って、白茶を啜った。 「今日の問診は大丈夫だったかい?」 遠志は書物に目を向けたまま蘭瑛に尋ねた。 「あ、はい。とても落ち着いていらっしゃいました。奥様もそろそろ臨月に入られますね」 「そうかい。無事に産まれるといいね。今日は、露店の串焼きは食べれたのかい?」 なぜ、それを知っているのか?!と驚き、蘭瑛は思わず白茶を吹き出しそうになった。 遠志は目を三日月のようにして「私が何も知らないとでも?」と言わんばかりに笑みを見せる。 蘭瑛もそれに合わせて「んふふ」と笑みを向ける。 「寄り道は程々にしなさい」 「…ふぁい(はい)」 (くぅ〜!バレていたとは…) 宗主との笑みの睨めっこは、この笑みの圧力によって敗者に終わった。 そこに、双子の弟子・鈴麗《リンリー》と鈴玉《リンユー》がやってくる。 「蘭瑛姉さま〜、こちらにいらっしゃったのですね。夕餉の準備ができましたよ」 「本当っ?!」 「遠志宗主は、こちらにご準備を始めても?」 「お願いできるかな」 もうそんな時間なのかと、蘭瑛は遠志の夕餉が運ばれるのを見届け、鳳秘典を持って鈴麗と鈴玉と一緒に、遠志の部屋を後にした。 夕餉を終えた蘭瑛は自室に戻り、さっそく鳳秘典を開いて調薬を試みる。六華術の特殊な術の『法薬《ほうやく》の術』は蘭瑛も得意だ。蘭瑛は調薬のコツを掴み、夜な夜な時間を忘れて赤沈薬《せきちんやく》を作り続けた。 気づけば、朝日が昇り始め、外が明るくなっていた。 チュン、チュンと雀のさえずりが聞こえてくる。 蘭瑛は流石に睡魔を感じ、寝台に横になった。 (玄天遊鬼に赤潰疫…。15年前のようなことが、また起きなきゃいいけど…) 疲れた目が、段々と虚ろになっていく。 蘭瑛は大きく溜め息を吐いて、縮こまるように布団に潜り、眠りについた。衝撃的な事実を知ってしまった蘭瑛は、あれから永憐と顔を合わすことがてきず、六華鳳宗へ帰らせてもらえないかと、宇辰を通して宋武帝に申し出た。 事情を知った宋武帝は、至急紫王殿に来るように蘭瑛を呼び寄せ、二人で話しをすることになった。 完全に正気を失った蘭瑛を見るやいなや、宋武帝は気を利かせ、今まで見たことのない豪華な花茶を差し出した。「呼び寄せて申し訳ないな。少し外で話そうか」「……は、はい」 随分と涼しさを感じる夜に、紫王殿の庭では蛍がふわふわと光り始めた。 外のカウチに腰を下ろし、宋武帝は蛍の光を目で追いながら静かに口を開く。「いずれはきちんと話さなければならないと思っていたのだが……永憐のことで、君を酷く傷つけてしまって申し訳ない。全ては私一族の責任だ。今更許しを乞うつもりはないが、当時、剣門山に所属していた永憐が、個人的な意思で君の父上を殺した訳ではないことは、どうか分かってやって欲しい。あれは、私の父上が理不尽に下した命令だったのだ……」 宋武帝は物寂しく空を仰いだ。 その横顔がどこか永憐に似ていて、蘭瑛はふと目線を逸らし、宋武帝の言葉を待った。 「永憐とは異父兄弟なんだ。この事実を知ったのは、十年ぐらい前だろうか。あいつは幼い倅を、祝言を控えていた妻の変わりに助けてくれてな……。せめてもの思いでここに呼んだんだが、少し気になるところがあって。ほら、私と顔が少し似ているだろう? だから、あいつの出自をこっそりと調べさせたんだ。そしたら、永憐はあの伝説の剣豪・冠月と母上の間に授かった子であると知って、それはそれは驚いたよ。私は永憐を弟だと思っているんだが、あいつは、自分を物凄く卑下な人間だと思っているらしく、自分は私の配下でいいと、皇弟として自分の立場を絶対に認めようとしないんだ」 何一つ自分のことを話さない永憐に、そんな秘密があったとは誰も知る由もない。 宋武帝は飛んでいる蛍を素手でそっと掴み、蘭瑛に見せながら続けた。「そんなあいつがある日突然、君を連れてきた。色欲も断ち、女の話に一寸とも触れようとしなかったあいつがだ。不器用で言葉足らずな奴だが、君には何か思うところがあったんだろう。誰よりも君のことを考えていたからな」 それは分かる。いつだって側
美しい月夜は儚げに消え去り、夢が覚めていくように二人の元に太陽が昇る。 「蘭瑛、朝だ。起きろ」 「…んーっ。ふぁい」 蘭瑛は欠伸をしながら上体を起こす。 永憐から寝巻きを渡され、寝台から降りて衣をさっと着る。 昨晩のことは途中までしか覚えておらず、途中から疲れ果てて眠ってしまったようだ。 「昨日はすまない。加減を忘れてしまっていた…。身体は大丈夫か?」 「…はい。大丈夫ですよ。私、途中で寝てしまったみたいですね。すみま…」 「せん」と続けようとした刹那、永憐に力強く抱きしめられた。 「嫌いにならないでくれ…」 「…ど、どうしたんですか?急に。永憐様を嫌いになる訳ないでしょう」 永憐は失うのが怖いといったような、どこか不安げな顔を蘭瑛に向けた。 今日から仙術の強化稽古が始まり、しばらく会えなくなると聞かされたが、稽古が終わったらまた会う約束をし、優しく口づけを交わした。 蘭瑛は隣の部屋に戻り、身支度を整えようと、寝巻きを脱いで鏡を見た。すると、首から下の上半身のありとあらゆる場所に、口づけの印を付けられていることに驚愕した。 (あれから、たくさん口づけされたんだっけ…。どうしよう…この無数の跡。何で隠そう…) 蘭瑛はとりあえず、葯箱から包帯を取り出し首元に巻き付けた。医局のオカマ医官に何か言われるかもしれないが、適当に遇らえば問題ない。蘭瑛は冷静さを保ちながら、医局へ向かった。 医局に到着すると案の定、オカマ医官二人に詰め寄られる。 「阿蘭、どうしたのよ?!その傷!ちょっと見せてみなさい」 「一体何をやったのよ…」 「だ、大丈夫だから!本当に直ぐ治る傷だし、二人の心配には及ばないから」 江医官と金医官は、目を細めて蘭瑛を一瞥する。 「阿蘭、また誰かに何かされたんじゃなくて?」 「ったく、女の首元に傷を負わすなんて、どういう神経してんのよ!もし男だったら、男根の先にこれを差し込んでやるんだから!」 金医官は、薬草を混ぜる先の尖った太い銅の棒を光らせた。これは、永憐にされたなんて口が裂けても言えないと、蘭瑛は思わず苦笑いを浮かべる。 「本当に大丈夫だから。六華術を復活させる為に色々やっちゃって…。それで」 「それで、六華術は復活したの?」 江医官に
もう逃げられないと意を決して、蘭瑛は急いで湯浴み処へ向かい、簡単に湯浴みを済ませた。 半乾きの髪を靡かせ、急ぎ足で藍殿へ戻る。 蘭瑛は永憐の部屋の扉の前で「ふぅー」と呼吸を整え、蝋燭の光が漏れている薄暗い奥の部屋に足を踏み入れた。 中に入ると、寝台の上で腰を下ろし、長い髪を垂らした寝巻き姿の永憐が待っていた。 「来たか」 「お待たせ…しました…」 蘭瑛は固唾を飲み、恐る恐る永憐の元へ歩み寄る。 永憐は真顔で、蘭瑛に向かって一言投げかけた。 「覚悟はあるのか?」 そう言われた蘭瑛は、その場で立ち止まった━︎━︎━︎。 決して覚悟がない訳ではない。ただ理由を話さなければと蘭瑛は六華術を回復させる為に、このような事を口走ったと話した。 「ならば、術の為にしたいということか?」 「いや、そ、それだけでは…」 蘭瑛はそれ以上何も言えず俯く。 永憐は間を置いて、もう一度問うた。 「どんな理由があっても、後悔しないか?」 蘭瑛は永憐の事を心から愛している。 いずれは夫婦の契りを交わしたいとさえ思っている。 術が回復することもそうだが、一番は永憐と口づけ以上の結びつきを得たいと心のどこかでは思う。そこに迷いや後悔はない。蘭瑛は心を決めたかのようにハッと顔を上げ、自分の衣の腰紐をしゅるっと外した。 「…しません。何があっても」 そう言いながら、蘭瑛は衣を少しはだけさせ、寝台の上へ登る。 そして、足を伸ばして座っていた永憐の上に跨り、永憐の目の前で衣を完全に脱いだ。 艶やかな肌を見せられた永憐は、蘭瑛の腰にそっと手を回し、蘭瑛の顔に自ら顔を近づけた。 「本当にいいんだな?」 「…はい」 息をする暇もなく、蘭瑛の唇は瞬く間に塞がれた。 永憐は何度も優しく向きを変え、蘭瑛の乾いた唇を湿らせていく。永憐の力強い舌遣いで閉じていた口をこじ開けられ、何度も舌を絡め取られた。舌を這わせ合うたび、水が弾くような音が部屋中に響き、鼻から漏れる荒い息が熱く交わる。 露わになった胸を何度も揉まれ、永憐の細長くて力強い指先で、先の突起を何度も弄られた。 身体全体に体験した事のない電流が走り、蘭瑛は我慢できず「んんっ」と思わず声を漏らす。唇が離れ、互い
それから、今までの輝かしい穏やかな橙仙南の色は消え、朱源陽の武官たちは橙仙南の庶民たちを蔑ろに扱うようになり、逆らおうものなら直ちに打首にされるという理不尽な内乱が勃発した。 橙仙南の一部の軍は朱源陽の傘下に入る者もいたが、深豊《シェンフォン》率いる軍は主に宋武帝の配下に身を置き、永憐たちと並ぶ形で桃園の義を交わした。 朱源陽の理不尽な要求や暴力が日に日に増していくことを懸念した宋武帝は、橙仙南の難民たちを宋長安へ避難させた。宋長安に住む人々の人柄は他所者を嫌う性格ではない為、難民たちとの間には争いや弊害などは生まれず、互いを尊重しあう形で生業を保つことができた。 秋めいてきた夕暮れの下で、蜻蛉の美しい複眼が、飛び回る害虫のハエを捉える。 瞬きをしたほんの僅かの間に、ハエは蜻蛉の口元で砕かれ、もう一度瞬きをした後にはもうハエはいない。 その卓越した動体視覚と俊敏さを駆使して、獲物を一瞬にして捕える。さすが勝利の虫だ。 その様子を窓越しから見ていた宋武帝は、永憐と深豊を紫王殿に呼び出し、向かい合っていた。 何を言われるのか大体想像のつく二人は、出された茶を啜りながら宋武帝の言葉を待つ。 「蜻蛉のようにならねばならんな…」 宋武帝はぼそっと独り言を呟いた。 そして目線を二人に戻し、続ける。 「今後のことについてなんだが…。いつ、朱源陽の矢がこちらに飛んでくるか分からない。いつでもその戦火が飛び込んできてもいいように、お前たち全員が持つ仙術の強化を図って欲しい。それに伴い、宋長安管轄の剣士たちも各方面から呼び寄せることになった。お前たち二人が師範となり、全体の底上げを頼む」 永憐と深豊は、同時に頷き『御意』と返事をした。 力強い二人の返事を聞いた宋武帝は、顔を緩ませ穏やかな表情を向ける。 「お前たちが居れば、私に怖いものなどない」 「全力でお守りします」 「橙仙南を代表して私も…」 永憐の後に続けて、深豊も誠意を表すように言葉を繋げた。 一方、蘭瑛のいる医局では環境に慣れず体調を崩す橙仙南の者たちが多く、問診に追われていた。 「食欲がなくて…」 「気持ちが塞ぎがちで…」 「涙が止まら
「何故お前がここにいる?」 「おっと、これはこれは王国師殿。いやぁ〜、物凄い霊気を感じたので様子を見に来たんですよ。そしたら、あなたに出会した。何か特殊な霊気でも出されたのですか?」 目の前にいる端栄は先程会った端栄と同じだ。 しかし、感じた違和感をどうしても拭えない永憐はまた尋ねる。 「私ではない。剣先を光らせたのはお前か?」 「はて?私はそんな物騒なことはしませんよ。誰かと勘違いなさってるのでは?」 確かに感じた玄天遊鬼の霊気。今はパタリと消え、何も感じない。端栄が続ける。 「まぁ、ここは妖魔が頻繁に出没しますから気をつけてください。あなたとやり合って腕を無くしたまま朱源陽に帰るわけにはいきませんから、今日はあなたではなく、こちらの方に」 すると突然、端栄は蘭瑛に向かって瞬間移動するかのように飛び出し、永憐の隣にいた蘭瑛の身体を軽く突いた。 蘭瑛は急に眩暈を起こし、足元から崩れ落ちる。 「おい、蘭瑛!しっかりしろ!貴様!蘭瑛に何をした?!」 永憐は珍しく声を張り上げ、永冠の先を端栄へ向ける。 「彼女を抱えながら私と戦うのは無理でしょう。彼女の医術は素晴らしいと、玉針経宗の医家が言っていましたからね〜。術滅印で六華術を封じてみました。これで、あなたが今深傷を負っても彼女はあなたを救えない。気をつけてくださいね。それでは」 端栄が瞬時に消えた途端、黒い靄が周囲に広がり永憐の透き通った視界は瞬く間に遮られた。その靄から幾度となく屍が溢れ出し、永憐は意識のない蘭瑛を抱き抱え、蘭瑛が嵌めている翡翠の指輪に更なる強力な守護術をかけた。そして探知術を同時に発動し、永憐は全身に駆け巡る全神経を尖らせ永冠を振るう。何度も袍を翻しながら屍を次々と殺していくのだが…。 しばらくすると、驟雨が永憐の足元を濡らし始めた。 蘭瑛の頬にも驟雨が落ち、きめ細かい白い肌を伝って滴り落ちていく。 最後の屍を斬ろうとした刹那、突然黒い靄が消え、視界が明るくなったと同時に鋭利な刃を持つ鴛鴦鉞が永憐と蘭瑛を目掛けて飛んできた! 永憐は永冠で同時に躱したが、視界の眩しさに耐えられず、もう一発の鴛鴦鉞に気づかなかった。
永憐たちが橙剛俊の宮殿内に着くと、先に来ていた宋武帝と橙剛俊が激しく口論していた。 「兄上がこのような惨虐に見舞われたというのに、どうして平然としていられるのだ?!」 「奴は死ぬべきして死んだんだ!私には関係ない!」 橙剛俊は憤慨し眼球を赤くして捲し立てる。 宋武帝も額に青筋を浮かべて、今にも殴りかかりそうな衝動を抑えながら拳を振るわせていた。 「お前、何か企んでいるのか?!」 「はっ。何を企んでいようと私の勝手だ。あんたには関係ない。今まで散々あいつに振り回され続けたんだ!今こそ橙仙南は自由になるべきだろ!あんたこそ橙仙南を心配してる場合か?あんな奴を心配する前に、自国の心配をしたらどうだ?倅を残してきたんだろ?大丈夫なのか?」 宋武帝は遂に堪忍袋が切れ、橙剛俊の顔を思いっきり殴った。橙武帝が今までどれだけの功績を残し、橙仙南の繁栄を守ってきたか。四国会の統治を守ってくれたのも橙武帝がいたからだ。 橙剛俊は床に伏して赤く腫れ上がった頬を摩る。 「お前とは桃園の儀を結べそうにない。お前が誰かと手を組みその者たちの所へ行くのなら勝手にしろ。しかし、橙武帝を侮辱するような真似は許さない!覚えておけ!」 そう言って宋武帝は踵を返す。 すると橙剛俊は唇を震わせながら、宋武帝の背中に向かって叫んだ。 「あんたこそ、これからどうなっても知らないからな!そこにいるお前らも出て行け!」 ずっと様子を伺っていた永憐の元に宋武帝が来る。 「永憐。私は先に帰る。頃合いを見て帰ってこい」 「分かりました。私たちもここを出よう」 永憐たちは宋武帝の後に続き、救いようのない愚か者を置いて宮殿を出た。 先に帰る宋武帝に宇辰が護衛として付き添うことになり、永憐と深豊は二人を見送る。そして、歩きながら深豊が口を開いた。 「まったく、どうなっちまうんだよ…これから」 深豊は溜め息を吐きながら、門の近くにある石畳みの階段に腰を下ろす。 永憐は何も言わず、遠くを見るように目線を上げて空を仰いだ。永憐の碧色の瞳には雲の模様が浮かび、わざと一抹の不安と恋慕を掻き消しているようにも見えた。 するとそこに、橙剛俊の倅・橙風宇が一人、日傘で顔を隠す様にしてやってきた。 「兄様方にお話しがご